あゆむん日記 -店の親父と定食と-

だらんだらんした生き物の停滞する日記。もう大概ツイッターにしかいませんけど

拙論

先月暇つぶしに書いていたもの。暇な人だけお読み下さい。
虚構ドキュメンタリードラマ見てて、今日上げなきゃと思った。←うわっ


――コトバのチカラ・映像のチカラ――
 現在の朝日新聞の広告コピーが「コトバのチカラ」である。
広告自体が、ショッキングな写真にこの一言というもので、
それは言葉というよりは写真の力なのではないかと思うのだが、
それはさておき、果たしてTVが全盛のこの時代、
言葉には映像より力があるのだろうか。
 確かに、見るものを考えさせる力というのは映像より言葉の方が遥かに上だろう。
考えなければ伝わらないし、考えれば考えただけ、
その人間の思想や価値観に影響を及ぼす。
自発的に考えさせるということにおいては言葉は絶対的な意味を持つ。
 しかし、視覚的情報は脳裏に焼き付く。
嫌な記憶ばかり覚えているように、
ショッキングな光景というのは一度見たら忘れる事はできない。
そんな光景を見たとしても、そこから何かを得て考えなければ意味は無いので、
言葉の力も必要ではあるのだが、焼き付けるというのは非常に大きい。
焼き付いた絵はふとしたきっかけでフラッシュバックする。
酷くなればそれはトラウマやPTSDになってしまう。
だから、ショッキングな映像は自粛すべきだというのが今の主流な世論だろう。
 けれども、それが本当に正しいのだろうか。
臭い物に蓋をすることで、実際に残虐な犯罪は減ったのだろうか。
むしろ逆なのではないのか。想像力に乏しい犯罪は増加傾向にある。
彼らは、ゲームや漫画や映画の作られた映像を見たことはあっても、
実際の映像を見たことは無いのだ。
 どんなにリアルに作ったとしても作られた映像は演出加工が施されている。
しかし、実際はドラマティックさも仰々しさも無く、
傷ついた人はのた打ち回り、時に呆然とし、
けれども溜めも何も無くあっけ無く倒れる。そこには何の演出も無い。
被災地や事故現場、戦地からの中継で
ただ回されつづけるカメラは、そんな現実を見る者に伝える。
 今は人は病院で亡くなるようになった。
また、核家族化が進み、子供達は誰かの死に遭遇することすら無い。
そして、目にする作られた凄惨さは
あくまでも一般的な想像力の内側で展開し、美しく非日常的だ。
現実、目の前で似たようなことが起きた時どうなるのか、
彼らは全く知らないまま成長するのだ。
 先日、9.11アメリカ世界貿易センタービルのルポルタージュの本を買った。
表紙は、抜けるような青空に雲かと見紛うばかりの白煙を上げるツインタワーの写真。
誰もが映画だと思い、そのわりにはチャチな映像だなと、
見た瞬間目を疑ったあの時の写真だ。
でも、そこには全面にモザイクが掛けられていて、
記憶にある者しかあの光景を喚起出来ないようにされている。
そう、自主規制されているのだ。
 確かに思い出してみれば、確実に見た記憶があるのに、
報道特集番組などですら全く流されなくなった映像は数多い。
ホテルニュージャパン火災で煙と炎に追い立てられて窓から飛び降りる人。
御巣鷹山でヘリコプターで吊り上げて救出される人。
噴煙と真っ赤なマグマを流しだして、木々を焼き尽くす三原山
雲仙普賢岳で、頭から灰を被り真っ白になって
フラフラと歩いてくる人の前で閉められる車のドア。
半世紀経ってまた焦土と化した神戸。アフリカの飢餓。
ベージュに統一された配色の中、鮮やかなオレンジの化学防護服を着た
レスキュー隊が放水で洗われていた地下鉄の構内。
そして白煙を上げるツインタワー。
頭に焼き付いているから見たはずなのだ。けれども、それ以降見た記憶がない。
ということはリアルタイムで見た人間以外は見ていないという事だ。
我々の世代より下の人間は全く見た事がないのだ。
 最近でも事件事故は多い、戦争も絶えない。けれども、
映像自粛の方向性が高まり、或る程度以上の映像は撥ねられてしまう。
事実、最近見た映像で酷い衝撃を受けたという物は私には無い。
そして、過去の映像も残虐性や、恐らくは
そこに関わった人々へのPTSDの配慮で自粛されている。
過剰な見解なのかもしれないが、第二次大戦時の映像や写真なども
自粛されているのではないかと思う。
平和記念式典中継などで、全く流されなくなったからだ。
確かに以前は流されていた記憶があるのに。
 想像力にも限界がある。
人間は見た物、体験した物を基にして考えを巡らす事しか出来ない。
だから、流すべきなのだ。良くできた虚構ではなく、実際にあった事を。
何も、どんな物でも流せと言っているわけではない。
イラクのテロ組織による捕虜の首切断の制裁映像などは
流す事など出来ないだろうし、流す意味もないと思う。
何も関係ない番組やCM、番宣、町中で目に付くポスターなど、
見る側に全く気構えの無いところで目に入る所には置くべきではない。
それこそ関係した人々にいたずらに心因ストレスを与える事になる。
ならば、逆に、見る側が或る程度覚悟して見るもの――例えば、
報道番組やドキュメンタリーなどでは流すべきなのではないだろうか。
 それでは、そういうものを見ない人々には伝わらないから
意味がないと言われるかもしれない。
けれども、全く流さないのと、流すのでは全く違う。
チャンネルを回した瞬間にでも目に入るかもしれない。
それに、もし残虐な犯行を犯そうとする者が居るとしたら、
その人物は凄惨な現場の映像を見たがるのではないだろうか。
これでも、流す意味はないのだろうか。流してはいけないのだろうか。
 本物を自粛して、必要以上に良く出来た大袈裟な虚構を流すのとは、
どちらが良いのか。
皆に、もう一度良く考えて欲しいのだ。