あゆむん日記 -店の親父と定食と-

だらんだらんした生き物の停滞する日記。もう大概ツイッターにしかいませんけど

 起きて、せっかく大垣に居るんだからと、大垣城へ行く。
何処にあるのか分からないほど、こじんまりとした平城の大垣城
市町村合併記念で入場無料でしたv
入ってすぐに、三成の字(もう大体見て分かる…)の連署の書状があり、
きっちりと書かれた整然とした文字に見とれてみる。痛
それにしても、三っちゃんは本当に文章を箇条書きで書きますね。笑
天守閣から杭瀬川が見下せますが、きっと左近が戦ってるの見てたんだろうな〜と思いました。


 次は、近くだからという事で、近鉄に20分程乗って、
戦国とは全く関係のない養老天命反転地へ。
ジャケ写とかに使われる(ΛuciferのELEMENT OF LOVEとか)
平衡感覚のおかしい建物つかオブジェが林立するテーマパーク的なところです。
平らなところしか歩けない方や、不安定な履き物の方、
三半器官に自信のない方は行かない方が良いと思います…。
面白いけど、意味不明な上に体力的にシンドイです…。
一番奥にすり鉢状で中庭のある建物があるのですが、
俺的に、恩田陸の『麦の海に沈む果実』に出てくる学校の中庭が、こんなイメージ。笑
ていうか、全般的にあの人の作品風景が俺の中ではこんなイメージです。
平衡感覚というか、どこか時空が歪んでる感じ。全てが不確か。
写真はその中庭ですが、これじゃ、良く分かりませんね。笑
それにしても近鉄養老線は、ナチュラルに自転車を持って乗ってる方が多くて、なんか不思議電車です。笑


 まだ1時だし、じゃあ、次は彦根城に行こうか?
となったのが、運の尽きでした…。こんなに凹むとは思いませんでした…。
 そんな彦根城は大垣から関ヶ原を通り過ぎ、米原の次の彦根にある、
言わずとしれた、徳川大老井伊家の居城なわけですが、
三成が収めた佐和山領がこの彦根。彦根城には、落城した佐和山城の材木とか、
使えそうな物が引っぺがしてきて使われているのです。
ん、まあ、そんなことはカケラも書いてないけどね!怒
(太鼓門櫓なんか移築だと言われているけど、案内板には違う寺の門だとされている)
で、まあ入ってみたは良いんですけど、……物凄くムカツク…。
まあ、良く残ってる城でね…立派なら立派なほど、ムカツク…。
泣きそうなほど腹が立つ…。接いである梁とか、長浜城から移築した櫓とか、石垣の石とか…
……返せよ! 畜生! 悔しいよ〜!泣
なんで、大垣城は空襲で焼けちゃった(現在のは再建)のに、ここはあるんだよ!
こっちのが目立つだろ? いっそ燃えちゃってれば、こんなに腹も立たないのに。
 で、今まで気が付かなかったのは良く考えたら凄く間抜けなんですけど、
同じ領地で、建材を持ってこれるってことは佐和山って近いんじゃね?
と、思って、天守閣から見てみれば、直ぐ目の前の山が佐和山…。
もう、行くしかないと言う事で、ムカツク城を退場して、
タクシーに乗って佐和山へ。
2kmも無い感じだったんですが、その間のタクシーの運転手さんの
説明がどうも歯切れが悪い…
「城跡しかないんだけど」うん、知ってる。井伊が壊したからな。怒
「麓にお寺が二つあって」うん、知ってる。どっちかが左近の家。
「歩けるんだけど、時間的にっていうか、整備もされてないかもしれないから無理かも」
別に昨日も軽く登山状態だったから平気。
 で、お寺の前で降ろされまして、まあ、看板は出てるし、
三っちゃんの供養観音とか銅像も(分かりにくいけど)あるんですよ。
ちなみに観音とかがあるのは左近の家だった清涼寺の隣の龍潭寺。
境内には入れますが、建物内は拝観出来ないようです。
時間的な物では無いような気もするんですけど、どうなんでしょうね…。
さて城趾ですが、時間的に寺の奧から上がっていっても門を閉められたら帰って来れない気がしたので上がれず、
左方向の搦め手の奧の車道の方を上がってみたのですが、この先行き止まりの看板。
めげずに行ってみると、見事に行き止まりっていうか、
舗装はされているが倒木がいっぱい道を断絶、ああ、本当に整備してないっていうか、
する気が無いんでしょう…。怒
でも、どっかで見た地図では城は右にあったような気がするんだけど…?
と思って元来た道を戻り、寺を通って右に行ってみると、登る道があったので登ってみる。
と、3〜50センチぐらいの小さな石碑が道ばたに。
石田三成邸跡」…邸か…。
つか、三っちゃんは龍潭寺の位置に屋敷を構えてたって話もあるけど、
…あの人城に帰る暇が無かったのは間違いないけど、本当に全く住んでなかったの?
(ん、でも、確かにイチイチ城まで登ってた気はしない…)
それとも城代だった頃の屋敷の事なの? わからねえ…。
位置的にここは間違いなく本丸じゃ無いし。そしたらこの碑がここにあるのおかしくない?
ちゃんと、ハイキングコーストやらを上がっていけば、ま、荒れ放題だけど、
それなりに城趾はあるみたい。ま、本当に跡ですけど。
行くと物凄く悲しくなるので、リベンジする気になるかどうかは謎です…。
…ていうか、本当に二山続いててどっちも城趾という、物凄くでかい城だったのに、
今はフラっと来てもどう入れば良いのかも分からないし、
書いてある事も、位置も本当なのか?という状況。
三成関係の物は徳川の皆さんが処分しまくってくれたせいで、
書状とか物でも三っちゃんが生前誰かにあげて、
その人がそーっと取っておいてくれたものしか残っていないので
調べると言っても限度があるわけですよ。分かんない事だらけなんですよ。
2001年に発掘調査が入るという噂も所詮噂で終了。
多分、調査なんて一度もされた事が無いと思う。既存の道すら整備する気はない。
…なんで、なんで、こんな扱いを受けなくちゃいけないんですか!?号泣
ああ、負けたから、負けたからですけど。三成が何をしたと言うんですか?
佐和山の皆さんは善政を敷いてくれた三成に感謝してたんじゃないんですか?
公明正大で融通が利かないけど、結果的に憎まれ役を押しつけられる感じで、
キチンと日本に治世の基盤を敷いてくれたのに…。
多分、三成が居なかったら、太平の世になったか分からんぞ。
…何だろう、ウィキペディアの三成の項が未だに揉めるのも分かる気がする…。
扱いが酷すぎる…。これじゃあ、ちょっと三成調べれば大概の人は擁護派に回っちゃう気がする。
明治政権は西軍方が取ったという事になってるけど、
長州的には毛利は結局、三っちゃんを裏切った形になっちゃってるから、
彼を復権しちゃうと「関ヶ原以降酷い扱いを受けた」とか大義名分を
振りかざしにくかったんだろうな。だから、抹消された感じのまんまなんだろうな…。
…そりゃ、吉継も三っちゃん以上に存在を抹消されてる感じになってるわけだし、
(西軍だし、朝鮮出兵したし、その上ハンセン病患者だったし…)
電車で通る度に、ああ、ここ吉継の所だって空気で分かる位恨むよな…。
仕方ない、仕方ないよ。そら、祟るよ。
彦根城築城400年記念祭とかする前に、佐和山を整備して下さいよ彦根市
佐和山への入山を120年も禁止した井伊家に寛容になんてなれん…。
なんだろ、すっごく悲しいし、悔しいな…。本当に負けるって悔しいよな…。